変わる日常 (下)



作・S





島長高校に入学して2週間が経った。

理数科は、やはり特色ある人間が集まっているようだ。

そして、俺自身も井村も特色ある人間に分類されるだろう。

俺と井村は生物部に入部し、俺が部長になった。先輩たちが受験勉強のため、部活にこれなくなったからだ。

新生生物部の人数は9人。全て理数科の一年生だ。

現在は、タンポポを指標生物としての土壌調査をしている。インドアの部活かと思っていたが、『調査の基本は足』であるかのように野外活動が多い。

生物部を馬鹿にする体育会系部活にも知ってもらいたいものだ。



「じゃあ、葵ちゃん、行ってくるね。」

俺は玄関まで見送りにきた葵ちゃんに言った。

すでに恒例となりつつある朝の訪問。

この時間のおかげで一日を幸せに生きられる。

・・・俺は意外と安い男なんじゃなかろうか?

「ええ、お気をつけて。」

いつものように笑顔で返事をされる。

ああ・・・この笑顔の前ではなにも考えられない。

そして茜に手を引っ張られて玄関を後にする。

「不思議よね・・・」

一緒に学校への道を歩いていると、茜がつぶやいた。

「何がだ?」

俺は時計を見ながら言った。朝補習まで、まだ時間がある。

「あなたと会って、まだ3ヵ月も経っていないのよ?それなのに、まるで昔からの友達みたいなんだもの。」

茜が両手を広げて言った。

手の軌跡がまるで翼を表しているかのように見えた。

俺は空を見上げた。雲一つない快晴だ。

「そういうことがあったもいいだろう?それとも、こんなのは嫌だったのか?」

黒いものが雲の下を通り過ぎた。鳶だろうか?

「・・・そうね。あなたと出会えて私も、たぶん葵も嬉しいわ。」

茜の顔を見た。微笑んでいる。

俺は小さく頷いた。



学校が終わって、俺は教室で小説を読んでいる。ちょうどクライマックスなのだ。

最後のバトル。どちらが勝つのか?

部活は火・木なので今日はない。小説を読み終わったら葵ちゃんの家に行こう。

「松尾〜」

帰っていったはずのクラスメイトが俺を呼んだ。いいところなのに邪魔しやがって!

「なんだ?」

返事をしつつ、俺はプリントの切れ端を栞として挟んだ。

「なんか南門で人が待ってんぞ。高橋っつったかな?工業生だったぞ。」

「あ、マジで?サンキュー。」

俺は礼を言うと、南門に向かった。高橋が何の用事だろうか?

階段を降りて、下駄箱に行く。そこで上履きのスリッパと学生靴を履き替える。

俺が玄関を出ると、高橋が飛びついてきた。はて?こいつはゲイだっただろうか?

余程急いでいたのだろう。息を荒げて、汗が止まることなく溢れている。 「もう部活は終わったんか?早いな。」

俺は能天気に言った。すると、高橋の目が鋭くなり俺を睨みつける。高橋のこういう目を見るのは久しぶりだ。

「それどころじゃねえ!いいからついて来い!」

高橋が俺の手を引っ張る。

教室に荷物を置いたままなんだが・・・高橋がこれだけ急いできたのだ。

なにかとてつもなく嫌な予感がする。

「わかったよ。」

俺は引かれるままに走り出した。



着いたのはあの公園だった。

今は人が少ない時間らしい。ベンチで本を読んでいる人が一人と犬の散歩をしている人が数人。

それと、陸上部らしき奴らがランニングをしているだけだ。

「こっちだ。」

高橋が森の中へと入っていく。俺も従う。

考えてみれば森の横に公園というのは珍しいんじゃなかろうか?

ちょっとだけ開けたところに出る。

小学五年生の頃だったろうか?たしかこの辺りで秘密基地を作ろうとしたはずだ。

すぐに木で作られた箱のようなものを見つける。大人が五人くらいは入れる大きさだ。

よくあの頃こんなものを作れたものだ。われながら感心する。

「基地の中、見てみ?」

高橋が指差した。

なんだろう?若干高橋の顔が暗い気がする。なんというか・・・目を逸らしたがっている感じだ。

俺は少しだけ戸惑ったが、ドアを引いた。

「なっ・・・」

生もののような臭いが鼻を刺す。呼吸が止まる。一歩、足が下がる。そこにあるものから顔を背ける。胸に手を当て神を睨む。

再び中を見る。何も変わらなかった。

「葵ちゃん?なあ、そうだよな?返事してくれないかい?」

俺は葵をできるだけ優しく抱き起こす。

葵の服は引き裂かれていた。葵がいつも乗っていた車椅子は部屋の隅にボロボロにされて放られている。

あっちこっちに付いている半固体。

なにがあったか。考えずともわかった。

そして、それは俺にとってたいした問題ではない。

「ごめんな。」

俺は葵の胸に耳を当てた。聞こえるはずの音が聞こえない。



俺の頭の中をその一言が覆い尽くした。

まだ生きていたのならば良かったのに。俺は彼女を愛せたのに。

朝に見た微笑が目の前に浮かぶような気がする。

なにがそうさせるのかはわからないが、俺の中に全てを壊したい衝動が生まれる。

床を殴りつけた。

殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す

殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す

そう。殺せばいい。

俺は葵を抱きしめた。命がない以上、抱きしめているのは只の肉の塊だ。

そんなことはわかっているが、そうしなくてはならない衝動に駆られた。

「だいがやったかわかっか?」

高橋に聞く。高橋は答えない。俺はハンカチを出して葵の顔を拭き始めた。

「・・・たぶん、聖薗高校のやつだ。あいつらが森から出てきて、不思議になって見に来たらそうなってた。」

返事が返ってきた。落ち着いた声だ。

「数と、名前わかるか?」

「9人だったと思う。全員の名前まではわからんが、保科がいた。」

保科。俺らとは同級生だった。悪ぶってるとは思ってたが、こんなことまでやるようになってたのか。

俺は葵を背負った。高橋が学生服を着せてくれる。

これで見た目は問題ないだろう。

「どこんおるかわかっや?」

「まかせえや。ほかんとはわからんが、保科はわかったい。」

高橋が先に行く。俺は葵を傷つけないようにそれを追って走り出した。



高橋が止まる。どうやらここなのだろう。

俺の家から五分ほどにあるスイミングスクールの隣にある廃ビルだ。

空が赤みを帯びてきている。公園からは随分と距離があったようだ。

壊されているガラスから中に入る。

笑い声が聞こえてきた。癇に障る声だ。

「右だな。結構近いみたいだ。」

高橋が手で付いて来るように指示した。俺は頷き、高橋の後に付いて行く。

「いや〜、凄かったな!」

すぐ近くで声がした。壁一つ向こうに奴等はいるのだろう。

能天気に話している。正確には聞こえないが、葵を襲ったときのことを話しているようだ。

高橋が俺の手を抑える。俺はわかっているという風に頷いた。

先ずは人数の確認。そして位置の把握が必要だ。

葵を背中から降ろして壁に寄りかからせた。ポケットから紐が垂れているのに気づいた。

心の中で謝りつつ、紐を引く。紐には十字架が付いていた。

葵はキリスト教徒だったのか。これで葵が自殺したのではないとわかった。

俺は十字架を胸ポケットに入れた。そして神に祈る。

「いいか?」

高橋が小声で話しかける。俺はきっちり十秒祈った後、頷いた。

「9人いる。このドアの前に2人。他は円のように座ってるな。一番遠いのまで大股で5歩といった感じだ。」

高橋が床に指で書く。もちろん書けてなどいないが、状況把握には十分だ。

「わかった。俺が先に入る。前の2人を飛ばして一番奥のを潰す。」

「わかった。じゃあ、お前が奥のを潰す間に2人は動けないようにふんじばろう。その間にできる限り潰してくれ。俺もできる限り潰す。」

「まかせろ。」

俺と高橋は拳を突き合わせた。コツンッと小気味良い音が鳴る。

ドガッ!!

ドアを蹴破り、右の奴に拳を一発お見舞いする。次いで左の奴の足を右足で払い、倒れるところを床に殴りつけてやる。そのまま前に進み、顔に拳を打ちつけようとする。

右手で止められた。その体勢から左足で蹴り上げる。今度は決まった。後ろを向く。6人が構えている。

これは分が悪い。奥に目をやる。高橋が2人目を縛り上げている。高橋に気づかれてはいけない。

とりあえず、右側の奴に一発打ち込む。止められる。当然だ。奴の手を握りこっちに引き寄せて右膝。クリーンヒット。俺に寄りかかるように倒れてくる。

ゴガッ!

頭が揺さぶられる。左から一発貰った。倒れ掛かってきた奴をぶつける。男がそいつに目を奪われた。体ごとぶつけるように顔を殴りつける。倒れた。だが、まだ意識がある。

太ももを踏みつけて、足を蹴り飛ばした。軽い響きとともに男の野太い声がする。折れたのだろう。

「うるせえ。」

俺は首を蹴り飛ばした。声が途切れた。死んだのだろうか?

残り4人。そう考えると同時に目の前が揺れる。後ろからだ。目に見える範囲に4人はいた。となると三番目に潰した奴か。距離をとり、後ろをみる。

なるほど、椅子か。なかなかいい得物だ。右手を突き出す。反応して椅子で攻撃しようとする。掛かった。右手で椅子の足を取る。そのまま右手を上に挙げる。同時に左手で奴の襟を掴む。

椅子を落とし、右手で顔を殴る。6回。目が白くなった。襟を離して、後ろを見る。

残り2人になっていた。

「うわあぁぁ!!」

自暴自棄になったのか。一人は高橋に、もう一人は俺に襲い掛かってきた。

拳を避け、足を掛ける。派手に転んだ。起き上がろうとするところを蹴り飛ばす。再び起き上がろうとする。蹴り飛ばす。それを続ける。

5回目になるとドアの方へ這い出した。ドア寸前までほったらかしにし、顔を踏みつけた。足の感覚で骨が砕けたことがわかる。死んだだろう。

「高橋、こっちは終わったぞ。」

体が熱い。微かな震えが体を支配している。

俺はポケットから飴玉をだした。封を開け、舐める。

甘さとともに震えが治まっていくのがわかった。

「ああ、こっちもだ。」

高橋は汗だくになっている。その汗が喧嘩によるものではないと直感的に感じた。

足元に赤いものが広がっている。それが何なのか、考えずともわかった。

俺は高橋の側に行った。

微かに震えている。

「飴、食うか?甘いぞ。」

飴を出した。メロンソーダだ。どうせならイチゴを出せばよかった。

「ああ、ありがとう。」

高橋は受け取るとすぐに口に含んだ。徐々に震えが治まる。

「どうしようか?」

高橋が赤いものを見ながら言った。

「とりあえず、隣の部屋にいかねえか?」

俺は縛り上げた2人を引っ張りながら言った。高橋はポカンとしている。

「・・・ははは。そうだな、そうするか。」

高橋が俺の手からロープを一つ取った。

隣の部屋にほいやり、葵を連れてくる。

「どうやって起こすんだ、これ?」

俺は捕まえた1人をつついた。ぜんぜん動かない。流石に床に打ち付けたのは不味かったか?

「そっちは起きるかわかんねえよ。こっちの保科を起こすの。」

高橋が天井から釣り下がっている鉄にロープを括りつけた。そして引く。体のロープは外してあり、手と足にしかロープはされていない。そのため、なんとなく冷凍マグロを思い出してしまう。

「吊るすだけで起きんの?」

「いや。これからなんかやってりゃ起きんじゃね?」

「無責任やな。とりあえず話しかけるか。」

「そうだな。お〜い、起きろ〜、起きんと学校遅れるぞ〜!」

「それはないやろ〜。俺は小突いてみるぜ。」

頭を小突いてみる。ピクリともしねえ。高橋はずっと起きろと叫んでる。これは、俺も起きるまで小突くべきか。

20回目。やっと反応があった。

「やっと起きたか。くたびれたぜ。」

俺が両手を広げて言う。保科は未だに状況が把握できないらしい。

「は?なんでお前らがここにいんだ?」

「お前がいけんことしたけんに決まっとろうが。」

「なんでお前にそないなこといわれなあかんのや!」

状況が理解できないとは悲しいことだ。それとも、もしかしてこいつは俺らをみくびっとるのだろうか?

「今日、ふざけたことしたろ?なんか弁解あるや?」

そういうといきなり保科が笑い出した。

「ぎゃははは!な〜に言ってんだ。お前に俺がしたことなんて関係ねえだろ?」

そう言って唾を吐いてきた。やっぱり、ムカつく奴だ。

俺は襟を掴んだ。

「これ以上ふざけたことぬかしたら殺すぞ?」

「お前からそげんこと言われるたぁねえ。殺すってのは殺せる奴が使うもんだぜ?殺してみろよ、根性なしの意気地なしオヤジが。」

保科が眼前でせせら笑う。殴る。

保科の頭が揺れた。

「っ、なにさらすんじゃコラァ!」

「あ?殺せッつっただろ。弁解でもする気になったか?」

「ふざけんな!おりゃあ、てめえなんぞに話す言葉はねえ!」

「そうか。じゃあな。」

殴る。途中で保科の意識が飛んだのがわかった。それでも殴り続ける。

「洋邦。もうやめろ。」

高橋が腕を抑えた。それに従って、襟を離す。

「別に誰に命令されたとかじゃなかったみたいだな。」

その言葉に違和感を覚えた。なにが保科をあの行動へと繋げたのだろう?なにかが裏に有る気がする。

高橋が保科をロープから外す。保科はそのまま倒れた。

「そうみたいだな。明日からどうすっか?」

葵を見る。不思議な存在感を放っている。

「なるようになるさ。とりあえず、帰ろうぜ。」

高橋が外を見た。空が完全に赤くなっている。すぐに暗くなるだろう。

俺は葵を抱き上げた。

「んじゃ、行くか。」

俺たちは一緒に歩き出した。



外には車が停まっていた。

この車を目にするのは2回目だ。

「久しぶりだね。松尾君。」

「小田切さん・・・どうしてここに?」

「ちょっと用事があってね。君は何をしてたんだい?」

「ええ、ちょっとした火遊びです。」

「ふむ。それは関心せんね。火遊びにしては、やり過ぎたんじゃないかね?」

どうやら見破られているようだ。下手な誤魔化しは使えない。

「そうですね。少々、やり過ぎてしまったようです。」

「一緒に来るかね?」

俺は耳を疑った。この状況でその言葉が聞こえるなどおかしいとしか思えない。

「どうした?私は構わないよ?」

余裕を見せている。このままでいても捕まるだけだ。

俺は高橋に目をやった。俺に頷く。

まかせるということだろう。

いくらこの町とはいえ俺たちのような奴らを放っておくことはできないだろう。このままでいれば捕まるのは時間の問題か。

命を終わらせるには、蟠りが残っている。どうやら付いて行くしかないようだ。

「一緒に行かせてください。」

俺は頭を下げた。高橋も頭を下げる。

小田切さんの口元が歪んだように見えた。笑われたのか?

「そうかい。ならば、車に乗りたまえ。これはこちらで処理しておこう。」

その言葉と共に、ビルへと向かう足音が聞こえた。

処理?事件自体を消してくれるのか、はたまた、死体をけしてくれるのか。

頭をあげると、小田切さんは微笑みに戻っていた。もしかすると、俺はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。

俺の気も知らず、高橋が車に乗り込んだ。俺は小田切さんを見つめる。

「どうしたのかね?早く乗りなさい。」

表情を変えずに、俺に命令した。語尾が強いのだ。

俺は車を見た。高橋が見ている。俺は小田切さんに気づかれないように左手で高橋にサインを出した。高橋は了承したらしく、携帯を取り出した。

小田切さんに向き直る。連絡の時間を確保したい。

「あの、迷惑ついでに一つお願いがあるんですが・・・よろしいですか?」

低姿勢に謙る。この方が、若干印象が良くなるだろう。

「なにかね?言ってみなさい。」

語調が、柔らかい。やはり好印象だったようだ。

「この娘を家まで届けたいんです。寄り道していただけませんか?」

俺は葵の顔が良く見えるように首を曲げた。どういう状態か、小田切さんはすぐに気づいたようだ。

「よかろう。案内してくれたまえ。」

「ありがとうございます!」

俺は車のほうへ歩き出した。高橋がOKサインを出してくる。連絡が取れたようだ。

葵を先に乗せ、続いて俺が車に乗り込んだ。

「付いて行ってやるってさ。」

高橋が小声で言った。

「あいつらしいな。悪いがお前から頼んでみてくれ。」

「ああ。わかった。」

小田切さんと、運転手が乗り込んできた。会話を止める。高橋も警戒しているようだ。

「あの・・・すいませんが、島長高校によっていただけませんか?」

高橋が一呼吸おいて切り出した。大丈夫だろうか?

「なぜだね?」

「ちょっと、大切なものを忘れてしまったんです。お願いできませんか?」

「・・・まあ、よかろう。おそらく大事なものというのはいまここにいない子のことだろう?」

ゾクリと背中を冷たいものが走る。

よくわかったものだ。やはり、この人には弱みを握られないようにするべきだった。

「ええ。そうです。」

高橋が声を絞り出した。冷や汗が頬を伝っている。

気持ちを切り替えるため、俺は鈴歌の家に行くように運転手へ指示した。



鈴歌の家に着いた。礼を言って車を降りる。

葵を背負うとき、小田切さんの顔が視界に入った。

笑っている・・・のか?目元が歪んでいる。嫌な表情だ。なんだか俺が小田切さんの罠に嵌められていっているような気がする。

頭を軽く振り、疑念を消した。今は贅沢を言える立場じゃない。贅沢を言えば、そこで全てが終わるのだ。

呼び鈴を押す。

「はい。」という声が聞こえ、ドアが開く。

「よっ。お別れにきたぜ。」

俺は中へと入った。ドアが閉まる。

「どういうこと?葵ちゃん、どうしたの?」

取り乱している。当然だろう。いきなり死体を背負った男が訪問してきたのだ。

俺は何も言わずに葵を降ろした。葵の姿を見て、どうやらなにが起きたのか理解したようだ。

「これからどうするの?」

「小田切さんっていう人に付いて行くんだ。どこに行くかはわからない。」

小田切。その言葉に鈴歌が微かに反応した。彼について、なにか知っているのだろうか?

まあ、いい。俺はそんなことよりも言わなくてはいけないことがある。

「茜にはなにも言わないでくれ。なにか聞かれたら、俺が謝っていたと伝えてくれ。」

何か熱いものが込み上げて来た。

すぐに『涙』という形をもって表れるだろう。

「わかったわ。」

それだけ言うと、鈴歌は俺の頭を撫でた。

他の奴からされるのは嫌だが、鈴歌からされると気持ちいい。

母性愛とでも言うのだろうか?そういうものを感じられる。

少しだけ、この時間を味わいたい。

だが、夢の時間は長く続かない。すぐに俺は鈴歌から離れた。

ノブに手を掛けたところで、思いがけない言葉が聞こえた。

「私は…あなただけを愛していたわ。…いいえ、愛し続けるわ…。」

振り返ると、鈴歌が涙を流していた。お互いに涙を流して別れる男女。俺が色男ならば、映画のワンシーンとでも言えるだろう。

俺は人差し指で鈴歌の涙を掬った。

「有り難う、鈴歌。俺も…いや、俺はお前が大好きだよ。今までも、これからも…」

玄関で伝え合うには無粋な言葉かもしれない。格好悪いかもしれない。それでもいい。

「キス・・・してもいいか?」

「ええ、いいわよ。」

俺たちはキスを交わした。

今までで一番短く、一番苦く、一番心を込めたキス。

「じゃあ…行ってきます。」

「…行ってらっしゃい。」

小さな抵抗。

もう会えないと思いあっているのに、少しばかりの希望を言葉に込めた。

『行ってきます』はまた会うための呪文。

『行ってらっしゃい』は帰って来てという思いを込めた呪文。

俺は玄関をでて、車に乗り込んだ。

「この解釈は俺にとって都合のいい事なのかな?」

小さく呟き、右手をみる。鈴歌の涙を掬った手だ。まだ、余韻が残っている。

「俺は馬鹿なんだろうな・・・」

窓をみて、そうひとりごちた。





掲載 島長高等学校編第一話:2007/01/17     島長高等学校編最終話:2007/05/28







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